日伊文化交流協会IROHA芸術会員の紹介
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生け花の歴史

 

生け花の起源

生け花の起源については諸説あるが、古来日本人は植物に精神的、迷信的な意味を見いだし花や若枝、常緑樹などを用いた祭りは各地で行われてきた。
それが基になって植物を造形する独特の表現が発達していったと思われる。平安時代、清少納言が書いた枕草子に以下のような表現がある。“こうらんのもとにあおきかめのおほきなるをすえて桜のいみじうおもしろきえだの五尺ばかりなるをいとおほくさしたれば…”。当時の貴族の庭には日本だけでなく外来の植物もたくさん植えられていた。また“あおきかめ”も渡来品と考えられる。この生け花を思わせる1文には同時に外国文化(中国や朝鮮半島)への日本人の憧れも表れている。
日本が輸入した文化の中でも特に重要なもののひとつが、仏教である。12世紀初めには、仏前装飾が簡略された三具足(みつぐそく)が絵巻物に描かれている。それは一般の家で長く続いた様式で、中心に香炉、向かって右に燭台、左に花を置いている。また、花だけが単独で生けられたものもある。

立花の発達

現在華道と呼ばれる芸術は室町時代、特に東山文化から生まれたとされている。既に文化の担い手は貴族から武家に取って代わられ、彼らの美意識を反映した茶の湯や建築様式が生まれていった。下克上を代表する大名佐々木道誉は、満開の桜の大木の下に銅をいかけて花器を作り、巨大な生け花を演出したと言われる。またこの頃でも盛んに大陸の文物を収集し、それを陳列して見せ合う会が盛んに行われていた。その時、いくつかの器物に花を添えたものが見られた。当時、座敷の装飾、宝物の鑑定、庭園の制作などにあたっていた同朋衆と呼ばれる芸術家グループの中に、立阿弥、文阿弥と称する生け花の名人が現れる。押し板(床の間の前身)という新しい室内の空間を使って、花の構成法や取り合わせなどを工夫して作り上げた様式が“立花”と呼ばれるもので、花器に対して中心になる枝を高く立てるスタイルである。
同じ頃、六角堂に池坊専慶という立花の名人が現れ、立花は人々の間に広がり始める。その後専応、専栄と才能ある人が続き、同朋衆はその後消滅したため、池坊が中心になって立花は発達していくことになる。戦国時代にはヨーロッパ文化の渡来、大きな城の建設による大空間の誕生などに対応し、立花も創意にあふれた力強い造形性を発揮するようになる。七つ道具という構成上の様式もできた。

江戸以降、生花や投入諸派が生じ、時代とともに形式内容が洗練され、他方では庶民にまで浸透した。明治時代には、新様式の盛花がおこり、現在では近代美術の手法を取り入れたものもある。

 

IROHAの芸術会員:



IROHAの芸術会員:

山口さち子

日本では、茶道を加えた3つの伝統芸能を学んだ。
イタリアに移住後は生け花と着付けという、最も重要で華やかな芸道を通じ、日本文化紹介に情熱をもって取り組んでいる。

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