東京の伝統工芸
江戸の職人技術
徳川幕府が成立し、江戸時代になると江戸の町(東京)は他の都市に比べ人口が圧倒的に多くなった。それだけ消費者のニーズも様々であり、そのニーズを生産者が把握し、フィードバックしていくには交通および通信手段の少ない当時は、両者の距離が近い方が絶対的に有利であった。東京の伝統工芸が発達し、洗練した技術を持つようになったのはその為である。
その上、将軍のおひざ元江戸には、日本全国から様々な特産品が持ち込まれ、それらを混合した江戸ならではの工芸品も生まれていったのである。
当時職人たちを支えていたのは大名家であった。そこには目利きの主君や家来がいて技術の向上を促進したのである。
東京の職人たち
現在、職人が多く集まる地域はやはり江戸の町の名残をとどめているところが多い。例えば、染め物の工房が多く集まる早稲田や高田馬場近辺では、神田川とその支流妙正寺川の水で、反物を洗っていたということに起因する。また、広い場所を必要とせず、騒音や環境への問題があまりない小紋、友禅や更紗などは小規模な工房が多く、移転せずに今でも比較的その多くがとどまっている。江戸切り子の職人が多いのは亀戸あたり、その他伝統工芸工房が集中しているのは、台東、荒川区である。一般に江戸期には町人や卸問屋の多かった地区に職人たちも集まっていたようである。
東京にはまだまだ数多くの職人たちが、存在する。しかし超大都市の中にあって人口に対する比率は低く、目立たない存在となっている。また江戸期のように密集している必要性もない今日、工房は東京の中心から少しずつ、郊外へ移っていく傾向にある。
それでも昔ながらの技術と伝統を守り続ける職人たちは少なくない。東京生まれ、東京育ちの者にとっても意外な東京の伝統工芸品に出会うことがある。また日本の伝統工芸に対する世界的な関心の高まりから、外国人の客も少なくないという。江戸時代のような有力なパトロンがいた時代とは異なり工業製品や外国製品との競争も厳しい。そんな中でも新しい時代に合わせた工芸品を創り出していったり、大規模でない、手作りの品物を愛する消費者によって形成される、小規模な市場に良いものをおくりだすなど、江戸の職人たちの挑戦は続いている。
—この記事作成にあたっては、桐タンスの相徳の代表取締役、井上雅史さんにご協力頂きました。
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